大阪万博-店長プロフィール-介護用品の通販・販売店【介護福祉用具専門店スクリオ】

店長プロフィール-大阪万博

大阪万博
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子どもの頃に見たものは・・・

大阪は天王寺区で私は生まれ、その後は四つ橋筋沿いの西本町に住まいを変え、1965年に大阪北部に位置する箕面市(みのおし)に住まいを移して今日に至ります。

越してきたばかりの箕面市は田畑が拡がる農業地域で、わが家の周囲に派出所以外の建物は目立たないほどの光景でした。その時代、日本は高度成長の活況にあり、とりわけ北大阪の地は日本万国博覧会(大阪万博)の準備で沸いていました。

子供の遊び場だった田んぼや畑は、不意に造成地に代わり、若い家族向けの戸建て住宅や文化住宅がそこに建ってゆきました。農村的光景が市街化してゆく過程にあったのです。

ですから、幼い頃の遊び場は、建築現場の資材置き場や造成地を遊び場でした。土管や瓦、ベニヤ板などを使って遊んでいた記憶があります。

さて、子供の頃に見た光景で、ことさら印象に残る出来事をあげれば、それは大きな象が、群れをなしてわが家の前を行進していったことだと思います。

象は張りぼての作り物とは違います。本物の象が20頭も鈍色の肌を光らせながらアスファルトの国道を歩いていったのです。刺さりそうなほど強い日差しにも関わらず、国道の両側は、象見物のひとだかりができていました。子供の私は人垣に混じって巨大な体躯が次々と、しかしゆったりと過ぎゆくのを眺めていたのです。

ときは1970年、私が小学校1年生にあがった年、真夏のことです

その日、国道は封鎖されていたように記憶しています。象の行進のためにだと思うのですが、ひょっとするとマラソン競技のように象が通る時間に限って交通を制限していたのかもしれません。それでも、普段はトラックやバス、乗用車、単車が走るアスファルトは、象の群れがただ歩くために使われていたのは確かです。

象の群れは、どこから来たのか。それはタイ国から連れてこられたのです。船で神戸港に着いた象は、自分の脚で国道2号線から国道171号線を西から東へ向かって歩いました。20頭の象は、それぞれの背中に象使いを乗せてます。東南アジア系の男たちで、おそらくタイ人だったのでしょう。確か国旗も掲げていたと記憶しています。

その象の群れが向かう先は、当時、千里丘陵で開催中の日本万国博覧会場でした。そこでは「人類の進歩と調和」をテーマに空前の規模と華やかさで、戦後に高度経済成長を続ける日本の力量を内外に誇るイベントが開催されていたのです。象はタイ国を紹介する催し物「象まつり」に出演するためだったのだと、その後、随分と歳をとってから知りました。どうやら図体が大き過ぎるなどの理由でトラックに乗せることができなかったようです。

大阪万博の賑わいは非常に輝かしいもので、その高揚感と活況は両親の小さな店にそれなりの恩恵をもたらしていたのだと、いまにして思います。大阪万博の見物は国民的関心事であり、遠くに住む親戚が、代わる代わるわが家へ泊まりに来ては、万博見物へ出向いたものでした。

伯父や伯母、従兄弟と久しぶりに会えたことは、それ自体がまた子供心にとても楽しい出来事でした。華やかなパビリオンでたくさんの人々を魅了した科学の進歩は、未来を輝かすのだと世間は信じていましたし、子供の私も明るい未来に大きな期待を持っていました。いま考えるとこの頃が「日本社会の青春期」だったのでしょう。

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